アキトは、おだやかになった。

とても。

どうして?ときいたら、ラピスがいるから、といってくれた。うれしい。

とても。

むかしのアキトはとてもつめたくてくらいものをたくさんもっていた。けど、いまはそれはとてもすくない。

いいことだとおもう。

わたしはあたたかいアキトがすきだし、やさしくわらったかおもとてもすき。

ユリカというおんなはきらいだ。あれだけがんばってアキトがたすけたのに、そのアキトにきづかない。だから、きらい。

でも、アキトはあまりつらそうじゃない。

いまはもうつながっていないけど、アキトはいまはいつもそばにいてくれる。

アキトのなかをかんじることはできないけど、すこしのかおのかんじで、なんとなくアキトのきもちはわかる。

だから、わかる。アキトはあまりかなしそうじゃなかった。

どうしてだろう?エリナにきこうとおもったけど、あれからあってない。

アキトにきこうとおもったけど、なんとなくきけない。

わからない。どうしてアキトは、かなしそうじゃないんだろう?



〜雨の中で〜



「あなたは誰ですか?」

その問は、正直予想していたものの一つだった。
救いは、『彼女』の前でこのやりとりがなかったことか。
いや、それも結局無駄か。いずれ、この映像を何らかの形で『彼女』はみるだろう。それを思うと心が重い。
俺はいい。
覚悟は…出来ていた。だが一番驚いたことは、その言葉に俺が思ったほどの落胆を感じなかったこと。
いくら予想できていたことでも、心の中で必死に追い求めていた女性だ。
だから、会えば自分の歯止めが利かなくなるかもしれないと思っていた。
しかし、いざその場に立てばそんな激情は起こらず、その衝撃は思っていたよりも軽かった。
ぼんやりと頭の中で考えては見たが、その原因は自分でも分からない。

それはいいことかもしれない。
俺にとってもユリカにとっても。

その場には誰もいなかった。
いたのは俺と、ユリカだけ。
エリナもイネスも、そしてラピスもこの場にはいない。
勿論、かつての俺の義娘であった『ルリ』もここにはいない。
当然だ。誰にも告げずに俺はここに来た。
だが、この部屋はなんらかの形で監視されているはずだ。
その手のことにはまったく前準備をせずにきたから、遠からず俺がここにきたということはバレるだろう。
そんなことは瑣末以外の何者でもないが。
五感は完全ではないにしろ回復し、日常生活に差しさわりも無い。
味覚が鈍ってしまったままだというのには正直落胆を隠せなかったが、いまさらこの血塗れの手で調理師など出来るわけがない。
そう考えて、思考は比較的容易に切り替わってくれた。
元に戻るとは、思っていなかった。いや、望むことすら罪だと思っている。
俺の業は深い。あれから一年経った今でも感情が昂ぶるのだ。
あの頃はよっぽど激しい感情の中に身を置いていたのだろう。
今となっては他人事のようにしか感じられない。

そんなことを考えながら、ユリカとあたりさわりのない日常会話をした。
見舞いに来て道に迷った、と下手な嘘をついて。
会話の調子は昔とあまり変わってないように思えた。

そこに一瞬の昔日を見て、刹那の感傷を感じた。

それから、五分ほどしてすぐに病室から出た。
もう来ることもない。そう、二度と。



ユリカさんが目を覚ましたのは、助け出されてから約一年経ってからでした。
説明というものをやらせれば右に出るものはいないお姉さん(自称)こと、イネスさんの言によれば、遺跡との融合によって体が休眠状態にあったとのこと。
要は、体機能が著しく低下していたわけです。
不要なナノマシンも投与された形跡はなく、そういう意味ではキレイなものでこれからの生活にもさして影響はありません。
もっとも筋肉等が衰えているためリハビリは必要とのことですが。
これで後はアキトさんが戻ってくるだけです。
イネスさんやエリナさんはいまだにシラをきっていますが、ネルガルが何らかの形で関わっていたことに間違いはありません。
すぐに見つかると、思っていました。

ですが、問題は私の手の施しようのない領域で起こりました。

アキトさんのことではありません。ユリカさんのことです。
その映像は、私には信じられないものでした。
目の前で起こる、初対面の人間同士のあたりさわりのない会話。
でも、その二人は初対面であるはずもなく、いえそれどころか夫婦の契りを交わした仲だったのに…。

「きっと、感じ取ってしまったのね。彼が…アキトくんが昔とは違うということを」

「そんな…どういうことなんです?」

「言った通りよ。彼女が『王子様』として認識している彼と今の彼はあまりにギャップがありすぎる。王子様は王子様でも、『闇の王子様』だもの」

本質は何も変わってないのにね…と言ってイネスさんはその部屋から出て行った。さすがに彼女もいたたまれなくなったのかもしれない。

だけど、これではあんまりだ。あまりな仕打ちだ。

私は、ボロボロと涙を流してその部屋をでる。
気配を感じて少し顔を上げた。
そこにいたのはエリナさんだった。

「…見たの?」

何も言わずに頷く。エリナさんは横を向いたまま悔しそうに、つぶやいた。

「あんまりよね、こんなの」

そのつぶやきを聞いて、私は彼女に尋ねることにした。

「アキトさんはどこにいるんです?」



エリナの憤りも、イネスの心配も俺にとっては無用なものだ。
そう思ってくれることは有難いし、うれしいとも思う。
けれどそれは無駄な感情だ。
だって、俺は何の感情も持っていない。
人間としてどこかが壊れてしまったのか、それとも…本当にユリカのことはなんとも思っていなかったのか。
『黒百合』を駆って、『火星の後継者』を落とし、一人で追い求めていた女性。
だが、俺は本当に彼女を求めていたのだろうか?
愛していなかったとは思わない。
シャトルの中で、いやそれ以前にも俺は彼女を大切にしようと思っていた。
間違いなく愛していた、とそう思う。
だが、今のこの落ち着きようはどうだろう?
俺は確かに彼女を求めていた。
…けれど、それは、きっと。
ああ、そうか。俺はただ、自分の責任を果たしたかっただけなのかもしれない。
無力な自分。何も出来なかった自分。
だから、助けられるということを自分に対して証明したかった。
そしてなにより、俺は復讐をしたかったのだ。
俺から全てを奪っていったあいつらに。
だが、それも終わった。

周りの人間…といってもアカツキやイネスやエリナといったごく少数しかいないが、あいつらは復讐がすめば俺が死ぬと思っていたらしい。
確かに、あの時期俺の生きる糧は復讐だった。
それが終わってしまったことで、空虚が生まれたのも確かだ。
だが、復讐をすることで俺は別の責任を発生させてしまっていた。
復讐の片棒を担がせていたラピスのことだ。
本当のところ、ラピスはエリナに預けるつもりでいた。
しかし、どうにも俺から離れたがらず、一週間がかりで説得してもどうしようもなかった。
アカツキの進言(というよりはからい)もあって、俺はラピスを引き取り育てることにしたのだ。
引き取るというのに案外抵抗はなかった。
ラピスが俺に過度の依存をしていたように、俺もラピスに依存していた部分があったのかもしれない。
五感が回復し、リンクをきったせいか、より依存度が高まってしまったように思う。
エリナには若干であるが心を開いているものの、ほとんど他人とは話さない。
情操教育のためにもなんとか学校に通わせるべきかもしれない。

ラピスはまだ眠っている。朝の五時だ、それも無理はない。
昔からの習慣で朝は早く目が覚める。
朝の仕込から、鍛錬へとやることは変わってしまったが。
グラスにミルクを注ぎ、ぼんやりと窓を眺める。
あまり天気はよくない。それほど時間が経たないうちに雨が降るだろう。

今の生きる意味はなんだろう?

ふと、そんなことが頭をよぎった。
刹那の間を置いて、解答が紡がれる。

意味などない。

そしてまた浮かぶ問。

俺は、なぜ生きている?

それは、ラピスがいるから。

だが、それはそれほど大きな意味を持つだろうか?
結局、俺はラピスのことを理由にして生きながらえようとしているだけじゃないのか?
だとしたら、なんて生き汚い。醜い生き方だろう。

雨垂れの音がする。激しい。
まるでスコールのような雨があたりに降り注いでいる。

……人の思いも、記憶もなにもかも流してしまえばいい。
どさり、と身体をソファーに預ける。
そろそろ仕事の電話が来る頃だろう。
今は、ネルガルのシークレットサービスで働いている。
なんというか、惰性だ。他に働くところもなければ、出来もしない。
俺はいまだに戸籍上は死んだ人間なのだ。そんな俺にまともな働き口があるわけもない。
元々まともに働く気のなかった俺は、そのまま惰性でシークレットサービスにい続けている。
給料もいいし、さして文句もない。今の俺にはふさわしい職場だろう。
電話が鳴る。
ウインドウが開くと、そこにはアカツキの顔があった。珍しい。

「珍しいな。どうした?」

「ちょっとね、心の準備をしてもらおうと思って」

「そんなに面倒な仕事なのか?」

「仕事?…ああ、そんなの今日はナシ。いいからその部屋にいてくれたまえ。お客さんがいくはずだから」

「客?」

「ああ、安心して。別にあやしいもんじゃないから」

言い方からして怪しい。

「誰なんだ?」

「会えば分かるよ。ああ、逃げるのはナシだよ。じゃないと僕が困る」

いやな予感がするが、多分もう遅い。
そう思った瞬間、ドアが開く音がした。
…ドアが開く?

「なんで勝手にドアが…」

「お、来たみたいだね。それじゃ邪魔者は去るとするよ」

といって問答無用で強制的に閉じた。
なんとなく予想はしていた。
玄関口まで出れば、やはり予想通り傘を持った義娘がそこに立っていた。

「おはようございます、アキトさん」



久しぶりに、本当に久しぶりに会うアキトさんは思ったよりも普通でした。
取り乱すのでもなく、昔とあまり変わらない態度で部屋の中に入るように促します。
言われるまま、私は部屋へ入りました。
生活臭はあるものの物の少ない部屋で、置いてある家具の種類からリビングだろうとあたりをつけた。
あまり部屋数は多くないようです。
アキトさんは無言だ。香りからしてコーヒーでも淹れているのでしょう。
少したって、二つのマグカップを手に持ってきました。

「ユリカのことだね?」

昔と変わらない優しい口調で、そう問うてくる。
けれど、私にはそれが信じられなかった。

「どうして、そんなに普通でいられるんです?」

心持ちきつい口調でそう尋ねた。
その言葉に少し困ったような顔になると、そう時間をおかず口を開く。

「ルリちゃん」

「はい。なんでしょう?」

「実はね、予想してたんだよ」

それに眉をひそめながら問い返す。

「何をですか?」

「ユリカが、ああいう態度をとることを、さ」

「そんな…なんとも思わないんですか!?」

少し荒げた私の言葉に、一瞬驚いたように眉を持ち上げるとすぐに口を開いた。

「正直ね、自分でも驚いてるんだ。あっさりとあの事実を受け入れたということに。もしかしたら、どこか壊れちゃったのかもしれないね」

そう呟くアキトさんの雰囲気は、とても穏やかだった。
私には分からない。
どうしてそんな簡単に諦められたのか。
ユリカさんはアキトさんにとってその程度のものだったのだろうか?
そんなことは思いたくない。それなら、あのときに私が閉じ込めた想いはなんだったというのだろう?

「そんなの…そんなの間違ってます」

「イネスさんに聞いたかい?ああなった原因を」

「え?」

不意をつかれて、少しうろたえてしまった。かまわずにアキトさんは続ける。

「遺跡に融合している間ね、ユリカは夢を見てたんだそうだよ。俺と…いや、正確には『あいつの理想の俺』と楽しく過ごしている夢だったそうだ」

マグカップの中身を見つめながら、半ばぼんやりとしながら話している。

「それがね、原因らしい。長い間そんな夢を見続けたせいで、『俺』という存在に対する認識が歪んでしまったんだ。あいつは、今の俺も、過去の俺すらも『俺』として認識できないんだよ。ただあいつの中にいる『理想の王子様』が『俺』なんだ。だから、あいつに俺は認識できない。過去の思い出の中の俺さえ『俺』ではないんだ。どうしようもないな」

その言葉を、本当に淡々とアキトさんは話している。まるで、他人事のように。

「アキトさんは、それでいいんですか?」

感情を精一杯抑えた声で、私は問う。そうしなければ、今にも泣き出しそうで…怖い。

「このままの状態でいいのかという意味なら、俺はこのままでいいと思ってる」

「もう、戻れないんですか?…昔のように暮らせないんですか?」

「…無理だよ。いろんなものが、歪みすぎてしまった」

その言葉を聞いて、私は俯いたまま外に飛び出した。



ルリちゃんが出て行ったあと、タイミングを見計らったようにイネスの顔を映したウインドウが目の前に開く。

「これでいいの?お兄ちゃん」

「…どういう意味だ?」

見ていたのか、という問をとりあえず押し込める。

「ルリちゃんのことよ。放っておくの?」

「雨がまだ降ってる。とりあえず探しに行くよ」

雨脚はまだ強い。傘もささずに外に出れば風邪を引いてしまうだろう。

「そうじゃなくて!」

珍しく、イネスの口調が強い。

「…わざとはぐらかしてるわね?」

「なんのことだ?」

イネスがやれやれと肩をすくめる。

「じゃあ、言葉にしてもらうわ。あなた、ルリちゃんのことどう思ってるの?」

「…」

「答えなさい」

こういうときには異様に高圧的になる。…ふう。

「義娘だ」

「本当に?一点の曇りもなくそう言い切れる?」

「…」

「迷ってるなら、ちゃんと自分の中で答えを出しなさい。どちらにしろ、あの子にははっきりとするべきよ。ただでさえ待ち続ける子なんだから」

そういい残してウインドウが消える。

もしかしたら、アカツキたちはもう俺のことをルリちゃん達に対して隠しておくつもりがなかったのかもしれない。
そう遠くないうちに俺の所在を明かすつもりだったのだろう。
ただそのきっかけがユリカだったということだ。
多分、ケジメをつけろということなのだろう。
ルリちゃんの様子にいたたまれなくなったのか、俺の様子に愛想をつかしたのか…。
まあ、どちらでもいい。
確かに、そろそろケジメをつけなければならないだろう。
ユリカのことにしても、ルリちゃんのことにしても。
…だが正直、答えは出ていた。俺があの娘を、ルリをどう思っているかなんて。



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